2015年4月29日水曜日

水俣病の被害と、その歴史と背景について熊本大学名誉教授入口先生から教わりました。

私: 先生ビックリ!水俣病を起こした企業って旭化成だったんですね?
via Twitter amaちゃんだ @tokaiamada · 4月26日 チッソという水俣病地獄を引き起こした企業(現在は旭化成など)は、戦前に朝鮮興南道に巨大な工場を造り、水俣工場と同じ製品を作っていて、このときも大量の水銀汚染を引き起こし「興南病」という奇病で数百名が死亡したとの報告がある つまりチッソは水俣病が起きることを百も承知で水銀を排水した。

入口先生
日本窒素肥料株式会社は、1908年に熊本縣の水俣村に設立されました。  1926年に日本窒素は北朝鮮にも進出し、朝鮮水力電気株式会社、朝鮮窒素肥料株式会社を設立しました。赴戦江(ふせんこう)にはソ連のドニエプル発電所(31万キロワット。世界一)を凌駕して出力32万キロワットの長津江発電所を完成しました。
長津江(ちょうしんこう)には都市ほどの広さの人造湖をつくりました。咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成しました。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われました。敷地の広さは約500万坪、従業員は約45,000人でした。
 興南工場では、年産40万トンの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造されました。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設され、人口18万人のアジア最大の化学工業都市が出現しました。  水銀は硫酸に溶けます。その溶液にアセチレンガスを吹き込むと水銀を触媒としてアセトアルデヒドができます。このとき有機水銀が副生します。アセトアルデヒドを酸化すると酢酸になります。この一連の反応は1881年にロシア帝国で開発されていました。
 日本窒素でこの実験を最初に行ったのは宮崎県の延岡工場(現在の旭化成株式会社)でした。延岡工場ではガラス器具を用いて一日に数10グラムのアセトアルデヒドをつくりました。1928年に、日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒド製造プラントをつくりました。日産0.5トンでした。パイロットプラントを設計したのは延岡工場から派遣された技術者でした。水俣工場でアセトアルデヒドを製造したのは、そこに西九州の良質な石灰岩と瀝青炭で製造した多量のカーバイドがあったからです。
 興南工場で「興南病」という奇病が発生したことが言い伝えられていますが、記録はほとんど残っていません。ただ、神戸大学附属図書館が所有する「京城日報」1934.9.20(昭和9)に興南工場について「硫安製造、その他各事業によって生ずる副成品でカーバイトをつくり、これによって酢酸を得、無水酢酸となし」とあるので、興南工場では有機水銀が副生していたものと推定されます。
 戦後日本窒素肥料株式会社は解体されて、新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)、旭化成株式会社、積水化学株式会社に分割されました。  なお、水銀を用いてアセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することは1922年までに国内で周知でした。また、1865年にロンドンで起きた世界最初のメチル水銀中毒死事件は、1927年までに国内に伝わっていました。日本窒素が水俣と興南でアセトアルデヒドを製造したのはその後の1932年以降です。
そのとき周囲がほんのちょっとした注意を払っていれば水俣の悲劇は最初からなかっただろうと私は考えています。 ↓




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